養父(ようふ)真介のプロフィール

肩書き

◆社会保険労務士法人Noppo社労士事務所 代表社員

名字が「養父(ようふ)」と珍しいので、養父社労士事務所にしようかと考えたのですが、身長が188㎝あり、「背高のっぽ」のほうが印象に残りやすいはず!と考え、「Noppo社労士事務所」という名称に決めました。

◆組織人事コンサルタント

「アセスメントセンター」という行動分析手法に出会い、採用で百数十名を数百時間掛けて観るという機会を得、それをクライアントの組織マネジメントに活かしています。

生まれ・育ち

1977年福岡県飯塚市生まれ

大阪府高槻市育ち、東京都在住

経理一筋の父親と営業で家庭を支えてくれた母親のもとで育つ

経歴

◆1993年~1995年 大阪青凌高等学校

◆1996年 京都産業大学 法学部法律学科 入学

◆1999年 大学を1年休学し、語学学校と放浪の旅へ

◆2001年3月 京都産業大学 卒業

◆2001年4月 某大手機械メーカーに「営業職」として入社、新人として初めて開設間もない支店に配属され埼玉県さいたま市大宮区へ

◆2004年4月 東京支社へ転勤

◆2008年9月 社会保険労務士 開業登録

大学を1年休学しての語学留学⇒一人旅(バックパッカー)

大学3回生が終わろうとしているころ、

・友人と呼べる仲間と20年掛けてやっと出会えた

・何でもかんでも中途半端な自分だったが、初めて所属団体を辞めずにやり通すことができた

・クラブの仲間と、一次会飲み会⇒二次会飲み会⇒三次会カラオケ(朝まで)⇒四次会バレーボール⇒五次会なか卯など、遊び尽くすこともした

・文化団体連盟というところに所属もして、他の大学の人たちとも交流をした

というそんな中で、まだ何かモヤモヤしたものがあり、「大学在学中にやり残したことはないだろうか?」と自問自答をしていたところ、忘れもしない12月31日に、「外国の人と交流がない!」という考えにたどり着き、急遽、就職活動を一旦ストップし、語学留学をすることに。

両親(母親)にもそれを伝えたところ、理解を示してくれ(基本的に、やりたいことはやってみなさいという考えを持つ親なので)、ベルリッツのサンディエゴ校へ。

しかし、西海岸を選んでしまったことが仇となり、語学学校には日本人が多く、「これでは、6か月後の自分があまりにも情けない状態になる」と想定し、やりたくても勇気がなくて踏み出せなかった「バックパッカー」をすることに舵を切る。

それも、グレイハウンドバスというアメリカを縦横無尽にと言っても良いぐらい行くことのできるバスの3か月パスを購入し、西海岸~東海岸までバスで横断。そこからは・・

アメリカ➡イギリス➡ベルギー➡チェコ➡スロバキア➡ポーランド➡ハンガリー➡ルーマニア➡ブルガリア➡トルコ➡ギリシャ➡イタリア➡スロベニア➡クロアチア➡オーストリア➡スイス➡ドイツ➡デンマーク➡スウェーデン➡ノルウェー➡フィンランド➡フランス➡スペインへ

日本に帰国してから、先進諸国ばかり行っても視野が狭くなると思い(東欧諸国も行ってましたが)、他のアジア諸国も見てみなければということで、

タイ➡ラオス➡カンボジアへ

あと、海外ではないのですが、「野宿をしたい」という少し変わった夢(夢と言っていいのだろうか?)があったので、自転車で滋賀県の琵琶湖を1週し(北のほうで野宿したのですが、真っ暗闇の中で一人寝るのは本当に怖かった)、広島に友人がいたので、大阪から広島まで2泊3日の自転車旅行へ。

それと、一人旅ばっかりではいけないと思い、親に車を借りて、就活中に出会った友人と二人で富士山に登ってからの東北縦断旅行。

岩手かどこかの駐車場でテントを張っていて、夜中に土砂降りの雨が降り出して、水浸しになっているのに、友人が平気な顔?して寝ているのには、ビックリ。

こうやって書き出してみると、いろいろやっていますね。。

趣味(過去)

◆登山

かわうそ山岳会というところに所属していました。穂高岳や硫黄岳などの山に登ったあとに、仲間と飲み食べするのが何よりの楽しみでした。

◆社交ダンス

「自分は一体何をしているときが楽しいのだろう?」「流行り廃りが少なく長く楽しむことができるものは何だろう?」と考えた末にたどり着いたのが社交ダンス(思えば、今の仕事を選択するに当たっても同じ考え方をしていますね。。)。ウリナリの社交ダンス部が出場していたアマチュアの大会にも出たことが・・。身長が高いので、「目立っていいわね~」と言われることも多かったのですが、「ヘタッピだと下手が目立ってしまうんですよ・・(遠い目)」と言う機会のほうが多かったのが現実でした。また、母親も社交ダンスをしていたため、母親と一緒に社交ダンスができたことは親孝行だったかと思います。

◆ホットヨガ

独立開業して3年目に突如、体中に蕁麻疹ができたため、「こりゃ、何か運動をせにゃいかん・・」ということで、悩んでいたときに出会ったのが、ホットヨガ。体は思いっきり固いほうなので、継続できるかどうか心配ではあったのですが、意外と暑さにも強く、終わった後の爽快感がたまらず4年弱続けました。

趣味(現在)

◆パデル

ホットヨガのあと、何も運動をしないことにモヤモヤしていたところ、たまたま近くのテニススクールで体験会を実施していて、テニスとスカッシュをミックスしたような球技「パデル」に出会う。

2018年6月~スクールにも通い出し、肩や肘の痛み、ぎっくり腰に怯えながら、今に至っています。

強みとしている業界、対応している業界

介護・福祉に強い社労士事務所ではありますが、クライアントは、私がメーカー出身ということもあり製造業、その他にも商社、医療、IT、小売り、不動産、建設、製パン、アパレルなど多岐に渡っています。

同業他社にはない強みとしての業務

業務としては、一般的な社労士事務所と同様に、社会保険・雇用保険の入退者手続きから就業規則・労働契約書・協定類の作成、一部助成金の提案・申請などを行っています。

他に類を見ない特徴としては、能力分析手法に接点を持ってきた知見から「社員の行動を把握、その特性を分析した上でアドバイスを行っている」ことです。

実際に私自身が誰かに相談をする立場に立った時にいつも感じることは、「できればこちらの状況を丁寧に把握してもらった上で、相談に応じてくれるのでればどれだけ助かるか・・」ということですが、残念ながらそのような対応をしてくれる人に出会うことは少ないように思います。

各クライアントから似たような相談はありますが、どれ1つとっても同じ答えを伝えることはできません。それは、その組織の状態、経営者の個性、従業員の個性が何1つ同じである企業などないからです。

そして、私は開業以来「どうすれば、企業や人が変わることができるのか?」ということを追求してきました。「人が変わる」ことに関しては、開業前から関心が高いテーマでもあり、またその中で変わる自分と変われない自分も何となく自覚していました。

その中で出会ったのが、概念化能力開発研究所(http://conceptual-labo.co.jp/)の奥山氏が提供するアセスメントセンターです。

元々、このアセスメントセンター自体はアメリカ発祥のものですが、奥山氏自身が十数年にわたる1万五千人以上(毎年増えているはずです)の膨大な人材(採用)アセスメントの臨床に基づき、「質的生産性の高い(価値や収益を生み出せる)人材が持つ能力」を、人間がもつ能力のうちから最大公約数的な尺度で抽出し、「キーポテンシャルダイヤモンド®」という生産性の高い仕事をする人が備えている「仕事力」体系を構築しました。

キーポテンシャルダイヤモンド®は「4つの核たる能力」によって構成されており、この能力群の有無や高低によって人材がどのような行動を取るのか、そしてその行動が組織にどのような影響をもたらすに至るのか…ということに関して、私自身が日々クライアントから持ち掛けられる労務相談や自事務所の採用活動を経て、数多くの実例を得てきました。また、クライアントが実施する採用アセスメントにも数年・百数十時間をかけてこの目と頭で体感してきました。

この軸を用いて、

組織をどのようにすれば健全な状態にもっていけるか、

特定の問題がある人材についてどのように会社として対応していけばいいのか、

などを法律論ではなく、組織に所属する人材の行動を細かく把握し、個別の具体論をもってアドバイスしています。

経験上、どの組織も「人の悩みなどない」というところは殆どありません。「殆ど」と言って良いほどです。経営者が絶えず抱える「人に対する悩み」を共有し、希望をもつための一手を共に考える・・・これが当事務所のスタンスです。

なぜ社会保険労務士になったのか?

こちらでは、社労士になったキッカケをお伝えしていきたいと思います。

原点は『阪神淡路大震災』

TVに映る震災の現場を見て『現地に行って自分にできることはないか』と心が動いたことが全ての始まりでした。

しかし、それまで自ら行動を起こそうとしたことがなかった私はどうしたら良いのかわからず、結局何も行動を起こすことができなかったのです・・・。

一歩を踏み出す勇気がそのときはまだありませんでした。

ただ、その火種は自分の中で燻り続けていました。そして、京都産業大学へ進学。大学にはボランティアとしては珍しく、「クラブ」としてボランティアのサークルがありました。

私は迷わず!(と言いたいところですが、若干やましい心がテニスサークルへ導こうとしておりました・・・が!)、そのクラブへの入部を決めました。

所属したクラブの名称は、「新社会」という部分に若干の怪しさを含む

『新社会ボランティアサークル』。

このクラブでは、先輩・同輩・後輩に恵まれた大学生活を送ることができました。何より、人生ではじめて「友人」と呼べる人と出会えたことだと思います。

一部の仲間は、介護福祉業界に魅かれ、卒業後、その業界へ舵を切った方もいました。

その中で私は・・・

『折角ご縁のあった介護福祉業界という分野を外からサポートすることはできないか』

『法律をベースにサポートすることはできないか』(法学部に所属しておりましたので)

『この【相談】ということを一生の仕事にできないか』(このクラブで出会った友人たちとの相談に乗っているうちに・・・)

「自分には何も特技がない。社会に出てからの強みが欲しい」(この当時は自分が持つ本当の長所を認識できず、”自信”が欲しかったのでしょう)

と考えたのです。

このテーマで探し続けていると・・・
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社会保険・労働保険の手続き代行だけではない、今後はクライアントに対して

親身になって相談に応じる『心の相談家』 としての業務が大きなウェイトを占めてくる 、それが『社会保険労務士』だ!

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というある法律専門学校の宣伝文句が目に飛び込んできたのです。

私は直感が『これだ!』と今後の人生の方向性を示した瞬間でした。

○阪神淡路大震災

○新社会ボランティアサークル

○人と心への関心

どれか一つが欠けても、私はきっと社会保険労務士になろうとは思わなかったでしょう。

この3つの偶然の繋がりが私を社会保険労務士の資格取得へと導きました。どれも偶然といえば偶然でしょう。でも、縁があったのは間違いありません。そして、その中で少しずつ『一歩踏み出す勇気』を養っていったのです。

私が社会保険労務士になることを決めてからは、高校や大学受験時代にも一切見せたことがないほどの猛勉強、そして集中力でした。何事もキッカケというものは大切だと改めて認識させられます。※親御さんは、自分の子供が勉強に興味を示さなくても、深刻になる必要はなく、その子の可能性を信じてあげれば良いと思います。

クラブ・講義は休まず、アフター(遊び・呑み)等の甘い誘惑を振り切りました(仲間からは養父がおかしくなったと言われ・・・) 。

「9ヶ月間」

無謀でしたが1日も休まず勉強を続け、ほぼ独学で奇跡的に合格(某専門学校の自習室と短期講座には大変お世話になりました)。

資格取得後は‥?

「そのままの勢いで独立開業!!」といきたいところでしたが、短期で受講した講座の社会保険労務士の方に相談したところ(基本的に、手堅く慎重な性分です)、『専門バカになるより、まずは大手企業で社会人としての経験を積んだほうが確実に良いよ』という言葉を受け止めて、大阪に本社のある一部上場の製造業へ就職しました。親の自尊心を高めてあげたいという気持ちと(親からの呪縛の1つだと思います)、阪神淡路大震災との関係もある会社だったので、勝手に縁を感じたのと、当時付き合っていた彼女と遠距離恋愛をしたくなかった(残念ながら次でお伝えするように地方へ飛ばされましたが‥)というさまざまな要因が影響したからだと思います。

そのメーカーでは、新人営業としては初めて「開設したばかりの支店」へと配属(通常は営業マンの数も多い大阪本社か東京支社へ配属されます)。しかも!最初の上司はなんと6ヶ月で希望退職(後から聞いた話ですが、「新卒を育てたい」と言って元々いた中堅男性営業マンを飛ばして新卒を求めたのに‥)。その次に着任した上司は年齢も 40代と私と20歳も離れており(前の上司は30歳以上離れていましたが)、加えて前の上司とは水と油の違いもある性格の持ち主の上司。もちろん水と油の『油』のほうで、火をつけたらあっという間に燃え広がるような、いわゆる”スパルタ上司”。週に1~2回の雷。本当に『雷』という表現が適切!と思えるほどの怒りっぷり(今でいうところのパワハラ)。

通常は、10分とか長くて30分とかだと思いますよね?これがまた普通では無い。平均して90分はいっていたと思います。最長3時間!最初の1時間はミスに対する感情的な怒り。その次の2時間目は過去のミスに対する追及。そして最後の3時間目は傾向と対策‥。まぁ、3時間も説教できるのはこのときの上司ぐらいなもんじゃないでしょうか?(同じことを繰り返すので、当時の部長はひっそりと”非生産的やな(関西人)”とも言ってましたが‥、今思えば、いやいやひっそりと言わずに、直接言ってよ~という感じですよね。マネジメント力がない上司そのものです。)

それを「丸2年」。間違いなくここで精神力が鍛えられた、と以前は思っていましたが、今はそう判断していません。なぜなら、心の強さは、成人するまでにはほぼ形成されているからです。よく社会人になってから鍛えられたという方がいますが(私もそうでした)、そうではないのです。当時の私は、その上司から何を言われても「僕は僕や」と思っていました。これは正に「自己肯定感」が強かったからできたものであり、もし幼少期から、両親から「お兄ちゃんみたいになりなさい」や「〇〇ちゃん見習いなさい」などと言われていたら、そうは思えなかったでしょう。ですから、間違いなく、そのときに病まずに済んだのは、親(特に母親)のお陰と思います。もし、私がそのとき自己肯定感を持っていなかったならば、鬱になっていたかもしれません。

2度目の開業への思い

上記の上司のもとで働いていたときに、再び社会保険労務士への思いが再燃しました。ただ、仕事も一人前にできていない、周囲からも一目も置かれていない、営業ノルマも達成できていない‥というないない尽くしのこんな状況で独立したからといって、お客さんに満足できるサポートをできるわけがない!と踏み止まり(さすがに自己肯定感も弱まっていたので、行き過ぎた指導の怖さを感じます)、それからは余計なことを考えず仕事に没頭しました。

業界・会社ともに右肩下がりの中、覚悟を決めて取り組んでからは人間関係や工場との関係が全てにおいて少しずつ好転していきます。

今思えば、あの2年間は、苦しく辛い日々であったことは間違いないのですが、考え方の甘さが際立っていた私が、社会の洗礼を受けるには必要な期間だったのだとも思います。その上司とともに異動が決まったあと、上司からは『お前の心臓には毛が生えているな‥』と言われたのですが、やはり、それは私自身がもつ「自己肯定感」が成せたものだと思います(母親が貴方は貴方でいいのよ、と言って本当の愛情を注いでくれた結果であり、親に対して本当に感謝すべきところです。いわゆる”毒親”とは真逆ですね)。

その上司と離れ離れになったあとは、営業マンの数も多い東京支社へと転勤となり、そして、次の上司には認めてもらうことができ、全てを一任してもらうことに。

営業に面白みを感じていた時代

次の上司から言われた『養父、お前に任せるから』という言葉は今でも忘れられない重くも温かい言葉です。

その後、本当に一からの新規顧客開拓も経験し、テレアポ・飛び込み・ダイレクトメールも勝手に体験。勝手に、というのは、別に会社が推奨していたわけでもなく、自分でいろいろな本を読んで、自分を売り込むことを実践していたからです。

※当時作成していた手書きのニュースレター。

すべて手書きのため、かなり手間も掛かりましたが、平日ではなく勝手に休日出勤をして作成していました。お客さんからの印象度は抜群でした。このニュースレターのお蔭で3000万受注のキッカケになったこともあります。

その中でもずっと消えなかった気持ち‥それが

「人に喜ばれる仕事がしたい」

という心から渇望する「思い」でした。

当然、営業をしていたので、お客さんから喜ばれることもあります。ただ、何か違う・・・

世の中が価格競争に傾注してきていて、人間関係や営業努力で受注できる時代ではなくなってきていました。また、お客さんのためと思って、製品を作っている工場を動かそうにも、どうしてここまでご機嫌伺いをしなければ機嫌よく動いてくれないのかという疑問を拭えずにいました。そして、何のため、誰のために働いているのか本当に分からなくなってきていたのです。

その葛藤を抱え、まるで「深海をずっと歩いている」ような息苦しい感覚でした(深海を歩いたことはないのですが‥)。

3度目の正直。開業への覚悟。

大手人材紹介会社に登録しに行ったこともありました。

大学時代に4年間力を注いだことが介護・福祉業界との関わりであったことから、大手介護施設にマネージャー候補の試験を受けに行ったこともありました。その中で、ふと立ち止まり、「自分って本当に何がやりたかったのだろうか‥?」と思い巡らせていったときに再び脳裏に浮かんだものが「社会保険労務士」だったのです。

「そうだ。僕は、社会保険労務士が本当にしたかったことだ‥。資格を取得したのはもう十数年も前の話だけど、原点はここだ。それも3度目の正直‥。ここまで思いを持っているのだから、開業する資格は十分にあるはずだ‥」

経験もノウハウも一切ありませんでしたが、意欲だけはギラギラと燃え、スイッチが再び入ったのです。そこから、知識をブラッシュアップし、情報収集を積み重ね(元営業マンの習性です)、開業への道のりをひたすら走っていきました。

家族も含め周囲は止めました。当然です。金も経験もコネもなく、2度目とは意味の異なる「ないないづくし」での開業でしたし、世は寒風吹き荒ぶリーマンショックの直後でしたから‥。

今思えば、全くの世間知らずで周りが見えていなかったのと思うのですが、それ以上に心が「自分の努力次第で人からダイレクトに喜ばれる仕事」を求めていたのでしょう。そこにどんな仕事があるかどうかも全く分かっていなかったにも関わらず・・・。

しかしながら、捨てる神あれば拾う神あり。たまたま講習で名刺交換をさせて頂いた同業の先輩、昔、自腹で自らの営業力を鍛えるために通っていたマーケティング塾時代に同じく名刺を交わしていた経営者の方と接点ができ、道が開けていったのです。あの頃は、藁にもすがる思いでしたが、必死な思いがあったからこそ伝わったのだと思います(シビアな経営者でしたので、利害も当然一致していましたが、気概をかってくれたのだと思います)。

開業から自分の中で揺るぎない自信をつけるため3年間は無休を貫き(今思えば、余り必要のないことですが)、開業初年度から自分の(恐らく他人も)予想を大きく上回るほどの契約と売上を達成できたのも、ある意味「時代を読まなかったから」だと思います。ガムシャラに契約を取ったために労力に見合わない報酬に苦しんだり、お客さんを判断する術も持っていなかったので精神的苦痛も味わいました。しかしそれも、すべて今のコンサルティングや人を見極める技術の向上に活かされています。

そして、何より念願だった「人からダイレクトに喜ばれる仕事」

「そんな仕事がこの世にあるのか・・・」と悩みぬいた過去の自分に伝えてあげたいです(苦しい思いをした過去に決して戻りたくはありませんが・・・)。

「求めれば、辿り着ける可能性がある」と。ただ、辿り着けない可能性も当然ながらあります。しかし、意志なきところに、求める結果はついてこないですからね‥。

社会保険労務士の業務を衰退だの求められていないだの面白くないだの不平不満ばかりをいう人も中にはいます。ただ、真っ当で健全な経営者をこの広い世の中から探し出し、適切で心の通ったサービスを提供すれば間違いなく喜ばれる仕事です。それを実感できるからこそ、飽きっぽい私が飽きもせず、続けることができています(それも日々頑張って業務をこなしていくれている職員のお蔭なんですけどね)。この仕事が面白くないという人は、つまり「人が面白くない」「人と関わりたくない」と言っているのと同じことです。どんな仕事をしてもタカが知れているでしょう。

誰に相談したら良いか真に困っている経営者の方々に、「望まれる個別支援」を提供していくこと。どんな時代の変化があろうともこの姿勢だけは自分の思い(初心)を失わないためにも守っていきたいと思います。